やる気が出ない、苦しいを楽しいに変える発想❕

勉強や仕事で、「今が一番の頑張り時」という時になぜか「やる気が起きない」なんていうことは、良くあることですよね。

おおかたの場合、やらないわけにはいかないので、何とか自分に折り合いをつけて「しょうがないやるか」と重い腰を上げて取り掛かるといったことも、日常よくあるのではないでしょうか。

私自身も、様々な場面でこのような取り組み姿勢でいたような記憶があり、結果も自ずと知れた状態でした。

この考え方をもっと早くに知っていたら、私の青春時代は「もっと有意義で、充実していたものとなっていたに違いない」と確信できる考え方を、今日はご紹介します。

ここで一点だけお断りしておきますが、説明している対象として、病気や栄養状態は考慮されていません。

いわゆる不定愁訴や何かの後遺症、鬱症状などの医学的な見地での不調もあり、そのために何も手につかないといったことも考えられます。

また、常日頃の食事のバランスの悪い方、睡眠不足、その他体調不良によるだるさ等からも意欲は減退します。

そういった方は、まず医師の診察を受け、体調を整えることを最優先に行って頂くよう予めお伝えしておきます。

 

1. 楽しいを生きるはバラ色の人生

 

さて、こんな理由で何も手につかないことがありませんか?

多少体は疲れてはいるが、体調に問題ない。

やりだせばソコソコやれるが、やる気が起きない。

飽きた。

違うことがしたいetc...。

私の場合、こんな時に作業の手が止まります。

しかし、その作業を長く続ければ続けるほど、作業の手も長めに止まります。

これが問題です。

ちょっとした気分転換で、調子が戻ってくれば悩む必要もないのですが、これが中々そうはいかないことが多いような気がします。

要は、楽しめていない状態の時に、こいった精神状態になることが多いように思います。

話は変わりますが、赤ちゃんを思い出してください。

小高い丘をハイハイして、丘の頂上に行こうとしているとします。

この赤ちゃんは、なぜ丘の上に行こうとしているのでしょうか?

赤ちゃんには、一切の報酬も関係ありません。

ただ、そこに行ってみたいというだけで、不自由な体を引きずって、唯ひたすらに這っていきます。

あたかも、そこに辿り着くまでの過程を楽しむように、笑顔すら見えます。

何が楽しいのか、大人には理解できません。

これとは質は異なりますが、趣味があります。

この趣味に没頭している間は、周囲の状況は一切気になりません。

そもそも、休憩など意味をなさないくらい没頭することも珍しくなく、時間の感覚すらなくなることもあったりします。

私事ですが、アニメや映画を見るのが好きで、時々複数の映画やアニメを一気見することがよくあります。

食事やトイレ以外は、一切のことをせず、ひたすら見まくります。

こんな生活を5日間続けても、なんの苦もありません。

好きなことをしていると、どんなに大量のエネルギー消費をしても、ストレスが溜まるどころか疲れすら残りません。

もし、勉強や仕事が、赤ちゃんの衝動や趣味と同じように、楽しかったりした場合を想像してみて欲しいのですが、どんな膨大な作業をしても疲れず、ストレスすら溜まらず、スイスイとこなすことができたとしたらどうでしょうか?

楽しいということと共に、集中した時間を手に入れることができ、むしろ充実感さえ得られます。

こういった状態のときには、脳も活性化しており、記憶力とも関係しています。

いやいやしょうがなく行う作業と、楽しく集中した作業とでは、同じ経験でもその質や経験知として大きな差があります。

また、ストレスフリーな生活を送ることは、健康やアンチエイジングにも繋がり、その恩恵は計り知れません。

 

2. 楽しくないやりたくないのはなぜ?

 

人は、過去の経験から認知脳が潜在意識の中に、セルフコンセプトという固定概念を形成し、それが「とらわれ」として、私達の思考や行動といったパフォーマンスの方向性を、強く支配しています。

例えば、人の理解速度には差があります。

これが遅いからといって、処理速度が遅いということではないのですが、数学の公式や定理をなかなか理解できないとします。

すると、「自分にはむかないから理解速度が遅い」といったジャッジを自分で勝手にしてしまい、「苦手」⇒「むかない」⇒「嫌い」といった認知をして、潜在意識の中に固定概念として植え付けてしまい、公式を見ただけで思考が働かなくなる。

本来、認知脳はどのような方向にも自在に働くはずなのに、パフォーマンスの方向性を自ら決めつけてしまい、「がちがち」になっている状態を「ノンフロー状態」と呼びます。

これも私ごとですが、私の学生時代になりますが、私の数学の成績は最低でした。

ものすごく勉強していたわけではありませんが、そこそこしていたように思います。

ですが結果は意に反して、いつも50点前後しかとれてなかったのです。

私は、普通の人より能力が劣っているので、点数が悪いのだとその時は思っていました。

それでも勉強していたせいもあり、点数は悪いのですが、できなかった問題は、知らなかったのではなくとらえ違いをしていて、答えを見て違いが理解できていたので、表面的には理解していたのだと思います。

友人はというと、70~80点と及第点でした。皆優秀でした。

相変わらず半年くらい成績が悪かったのですが、ある時、いきなり「なんだそういうことか」と急に点が線になったような気がしました。

それ以来、いきなり90~100点といった高得点がとれたことをおぼえています。

皆私が、相当の努力をしたのだと思っていましたが、私自身は知っていました。

今まで通りの学習をそこそこしていただけでした。

ただ、人と考え方が違っていたので、理解をするのに遠回りしていたのだと。

このようなことは、社会人でもありました。

一般的な思考とやや異なる人の代表に、名球会の長嶋茂雄氏がいます(私の私見です( ´艸`))。

彼の選手としての成功は、※ライフスキル機能(心が揺らがず、とらわれずのフロー状態に導く機能)が高いために、あのような成績を残せたのだと言われています。

「日常生活に生じるさまざまな問題や要求に対して、より建設的かつ効果的に対処するために必要な能力」(WHO:世界保健機関)

長嶋茂雄氏を理解するにあたり、彼の現役時代のある打席に、私はヒントがあると思います。

1959年6月25日、プロ野球史上初の巨人Vs阪神の天覧試合。

東京ドーム。

7回に巨人のルーキー・王貞治小山正明から同点2ランを放ち、4対4の同点にもつれた試合。阪神の田中義雄監督は小山から、ルーキー・村山実にスイッチした9回。

先頭打者として打席に入ったのは長嶋茂雄

ところが、1球目2球目と大振りするのですが、球とバットの間に20センチくらいの差があり、彼は首を傾げています。

全くタイミングのあっていない、その状況を観ていた観客は、「いくら長嶋でも今回はだめか?」と頭によぎったと思います。

彼は、一旦打席を外し、3回4回と素振りをして首を傾げながら再び打席に入ります。

カウント2-2からの5球目。

内角高めの速球にバットが一閃する。

打球は左翼スタンド上段に飛び込んだ。

天皇陛下がご退席する午後9時15分まであと3分というところでした。

普通は、この場面で切れのいい球を見せられると、内心「これは厄介だな!」と思ってみたり、確率を考えたり、配球を想像したりして考えすぎます。

しかし、彼の頭の中には、自分の想像した球を「どう攻略するか」としかなかったように思います。

ひょっとしたら、自分の想像していた配球と違った球を打っていたかも知れません。

そして、このホームランは彼自身、意図して放った一打でした。

この日のバットは、いつも使用していたバットよりも重く大き目なバットを、自ら選択して臨んでいたからです。

彼は常にここぞという場面では、自分に集中していました。

ここで本題に戻りますが、楽しくないのは潜在意識に植え付けた「苦手意識」、つまらないと決めつけた「とらわれ意識」でした。

本来、人間は外的な要素から身を守るために、いろんなことに目を向ける必要があり、様々な事象を認知するため、あらゆることに「とらわれ」ています。

そのため、一つの事に長い時間集中できなくなっています。

逆にこの機能が弱いと、車の運転もできません。

まず、集中している時間が短いと嘆いているあなたは、普通です。

次に、人と違う思考過程を持っているからといって、それは劣っているわけではありません。

問題は、誤った「認知」による誤った「とらわれ」で、潜在意識の中に「固定概念」を植え付けていることです。

それを打破するためには、点として得た経験知又は知識が、線になるまで続けることです。

線になった知識や経験は、リアルな具体像として捉えられ、深く認知ができた正しい知識や経験は、誤った認知を容易に修正できます。

人間は認知脳で、外部の状況に対して意味づけをするようにできています。

大事なことは、それを止めようとするのではなく、それが心の状態を作り出しているのだということに、気づくことです。

そのことを理解し、新たな認知を強くすることで、集中状態を作れます。

迷わず集中した状態が作れると、人間は本来持っているライフスキル機能を、十分に発揮できるからです。

 

3. 発想の転換で内的動機を深く意義付け

 

どのような作業をするにしても、必ず動機付けがあります。

勉強するにしても、志望校に受かりたいためとか、仕事をするにしても、職責を全うするためとか、収入を得るためとか...。

これらは、全て外発的な動機であり、一たび目標が成就すれば、急に意欲を失ったりします。

その状態は、その時には集中しているように見えても、継続性が短かったり、疲労を伴っていたり、再現性が低かったりします。

このようなエネルギーの作り方を「外発的動機付け」と言います。

エネルギーの源泉が外部にあって、常にそのようなものによって、生み出されたエネルギーから集中状態を作るということです。

エネルギーの源泉が外部環境にあるため、環境の変化とともに不満やモチベーションの減退にも繋がったりします。

一方、「内発的状態」とは、そのことが心の底から好きで行っている状態で、外部環境が変わっても、途絶えることのないエネルギー状態のことをいいます。

よく一流のアスリートが、ピークの年齢を過ぎて、報酬やプライドを度外視してまでも現役に固辞するのは、これに近いと思われます。

周囲の評価は一切気にせず、ただ同じことを体が動かなくなるまでやり続ける...。

多分、本人は幸せなのだと思います。

これは、組織があっても、本人の能力に特化した世界での作業なので、一般の人にはあまり関係性が薄い人もいるかと思います。

大方の人は、組織人として連携プレイを重視した作業をしているので、個の成績よりもチームの成績が問われる人もいるはずです。

そういった人の「内発的動機」はどうなるのか?

①好きを大事に考えている

②自らが決めて行っていると考えている

③自己成長を原動力に考えている

④一生懸命が楽しいと考えている

⑤感謝を大事に考えている

⑥自分だけでなく、組織目標にもコミットしようと考えている

これら①~⑥を心に秘めている人は、「内発的動機」の人といえますが、組織が社員を使い捨てにするブラック企業においては、上記を心のうちには中々維持しにくいと思います。

例えば、役員自らがガバナンスを軽視している。

派閥に執心している。

再現性の低いプラン、規律を精神論で乗り越えようとしている。

組織が複雑で、現場の裁量が低い。

これらの組織が、衰退の一途をたどることを歴史が証明しているので、見届けるのも経験ですが、サッサとログアウトすることをお勧めします。

期待のできる結果は、得られないはずですので。

話を戻しますが、上記の事を内心に秘めていても、口に出す人をあまり見かけないのが、日本人といったところでしょうか。

時々みかけますが、万年係長のAさん。

出世はしないのですが、腐らず一生懸命に仕事をしています。

頼まれたらいやとは言えず、どんなことでも引き受けてくれます。

頼みもしないのに、色んなことを教えてくれます。

おだてると、仕事に工夫をして返してよこします。

また、彼の不機嫌な顔を見たことがありません。

すごく、素敵な人ですが、残業だけはNGです。

彼の修業中の心中は、充実していると思います。

片や出世頭のBさん。

Aさんより7歳も若いですが、課長です。

いつも上司から、圧力を掛けられているせいか、仏頂面です。

ストレスでドカ食いをしているので、恰幅がよいです。

見た目は、Aさんより老けて見えます。

成績が悪くなると、彼の必殺技がさく裂します。

小声でささやくように、ブラックジョークを連発するのです。

それを聞いた人はみな急に笑顔が消え、黙々と仕事をし始めます。

人前では言いませんが、内々の酒の席では不満タラタラです。

彼は一見、仕事は順調そうですが、決してパフォーマンスは高くないし、どうみても不健康です。

また、彼のチーム自体も「外発的動機」に縛られているので、成績は維持していても真に力を発揮できないでいます。

これらは、ありがちな例ですが、①~⑥の「内発的動機」を誰が実践しているかお分かりだと思います。

誤解を避けるために一言申し添えますが、「内発的動機」で作業したからといって、全ての人が直ぐにトッププレイヤーになるとは限りません。

人と自分を相対的な比較をすることなく、自分がどうであるかを心中深く認知することを目指していますので、人によっては短期的な成果がでない場合もあります。

では、何を目指すのか?

外的環境に左右されない、「不動の自分」です。

人は、実証的な結果を経験知として根拠に持たないと、「自信」が持てないように潜在意識が「とらわれ」ています。

これも、人類の危険回避の観点から、無謀な冒険による事故を防ぐための本能とも言えるかも知れません。

しかし、この潜在意識に固定化された「とらわれ」が、今の自分の無気力の原因であるとしたら...。

そこで、自分に居心地の良い潜在意識をブレイクスルーする習慣を、地道に作り出す必要があります(居心地の良い潜在意識とは、「変化」や「挑戦」とは、真逆の潜在意識のことです)。

それが、先程説明した①~⑥です。

フリーランスまたは受験生の方は、⑥は応用の価値がありそうですが、全体的な考え方として、前進の妨げとなっている「とらわれ」を打ち消すのではなく、なぜそれをするかという深い意義づけと共に、「精いっぱい今を生きている」という自信(根拠は考えない)によって、「とらわれ」る隙を作らないといった考え方です。

かくて、すこしでも前進している喜びと共に、正しく今を生きているという自信によって充実を得て、継続することによる経験知の増大で、そのことが「得意になる」⇒「好きになる」という好循環を生みだせれば、どんどんそのことにのめり込んでいけます。

 

これは、変えられないことがフロー(集中)の妨げとなっているならば、それを心に持ち込まないことが「自分を守ることになることを知っている」という思考であり、そのことの認知を強くすることで、原因となっている認知を忘れるようにする方法です。

これをウォッシュアウト思考といいます。

 

4. カイロスタイムの向こうにある、自分だけの集中した時間

 

決まったように、ただ時間が過ぎている状態をクロノスタイムと言います。

一方、同じ時間を過ごしているにも拘らず、充実いしているフロー状態をカイロスタイムといいます。

人生の中でどれ程のカイロスタイムがあるかどうかが、その人の一生を決めるといっても過言ではないと言えます。

ゾーンに入る」という言葉は、今では一般化していますが、意識して入れないことは、誰でもうすうす分かっていることでしょう。

ゾーンカイロスタイムの先にあります。

私にもゾーンに入れた経験が、人生で幾度かあったと自覚しています。

最初は、多分中学生時の草野球での出来事だったと記憶しています。

集中した状態でバッターボックスに入った時のことです。

一球目はボールでしたが、二球目の球をミート中心のバッティングで跳ね返そうとしていた瞬間でした。

球が真ん中高めに入ってきたのですが、その球がハンドボール大の大きさに見え(自分の感じたイメージです)、しかも中々手元まで来なかったように感じました。

振りかぶったバットを球の高さまで寝かせ、腰の回転でバットに乗せてそのままはじき返しました。

結果は、ライナーで外野まで飛び、三塁打となりました。

ピッチャーがその打球を見ていたのですが、「打球速度がものすごく早かった」と言っていました。

私もその行方を十分に目で追った後に走り出しましたが、塁間を全力で走っていたにも関わらず、時間はゆっくり流れていたいたように感じました。

多分それは気のせいで、周囲の動きがゆっくりに感じられたせいだと思います。

ここまでの一連の動きの中で、一つだけ後で気が付いたのですが、音が一切聞こえなかった(音すらも気にならなかった)気がします。

三塁ベースに滑り込み、監督が近くに来て声をかけてきた時、ふと我に返ったようでした。

その後、このようなことはしばらく起きず、この経験をどう捉えたら良いのか説明できずにいました。

今にして思えば、すべて納得ができます。

フローになかなか入れにくい人は、周囲の人や事象が気になりやすい人に多いように思います。

このことは、けっして悪いことではないと思いますが、その切り替えスイッチをうまく作動させないと心を乱され、「とらわれ」の原因になります。

長嶋氏の例で説明したライフスキル脳が、スキル化すればするほど、自然に集中することができ、カイロスタイムに生きることに繋がります。

そのため、ここぞという時に、ある意味すべてを無視できる心の切り替えが必要です。

それは、自分の心を決めるための自分自身こそ、ライフスキルという脳力そのものという自覚が大事だということです。

周囲の環境や他人の言動を、今集中すべきこの時には、一切意に介さない強い意志が必要だということです。

楽しい感情は、継続的な経験知と共に、結果に関連することが多いです。

しかし、現実的に結果は、ある期間の作業の積み重ねの先にあります。

そこで、結果だけをみすえて今を耐え忍ぶのではなく、瞬間瞬間のフロー状態を自分自身で作り出し、どんな時にもカイロスタイムの生き方ができる、プロセスそのものを楽しんだ方が持続性が高く、良い結果を生むことが多いです。

過程の質を上げることは、良い結果に繋がり、良い結果に初めて過程の重要性に気づき、かくてカイロスタイムの生き方そのものに、充実感と生き方の原点を見いだせます。

このことのキーワードは、「一生懸命」という言葉に尽きます。

一生懸命」の意味合いとして、何かガムシャラなイメージを思い浮かべる人もいるかと思いますが、本来の意味合いは、自らの意思で物事にひたむきに取り組むことを、意味する言葉です。

高い集中状態にありますが、本人は意外と冷静でもあり、かつ周囲の事が一切気にならない状態です。

そのため、ストレスを感じることなく、何かを無心で取り組んでいる状態の中、時間はあっという間に過ぎることも屡々です。

また、集中力が高い状態なので、ミスが少なく、時として神がかったことに気付いたりします。

そして、無心で行っていますので、時間の感覚がなくなり、「気が付いてみたら膨大な作業をなし終えていた」なんていうこともあります。

休憩時間さえとることも忘れ、ストレスもなく、終わってみたら清々しさだけが残ったという、なんとも素晴らしい充実感です。

ここで一言付言しておきますが、休憩を取らないという表現は時として危険を伴うので、そういうときもあるぐらいに考えて頂ければと、ここでは申し添えておきます。

 

まとめ

 

ストレスの多い社会にあって、いかに幸せに生きていくか?

変えられない「周りの人の行動」、「気になる音」等...。

変えられない事象に心を「とらわれる」ことは、作業能力の低下やストレスの原因にもなります。

混迷の時代にあって、いかに健康に生きていくかは、現代人の課題でもあります。

どんなことでも、〇か✕で評価したくなるのが人間です。

自分が正しく、相手が間違っているという考え方です。

こちらが挨拶をし、相手がむすっとして無言で通り過ぎたらどうでしょう。

「なんだあいつは、挨拶もろくにできないのか?」と怒りの感情が湧いてきます。

この怒りの感情はノンフローそのもです。

そもそも挨拶自体、心に余裕がないとできない作業です。

また、最近ではあまり親しくない人とは、言葉を交わさない風潮があります。

相手に対してのノンフローな感情を自分自身に抱くより、「心に余裕がなかったのか」と寛容の心で自分を納得させた方が、余程価値的です。

常日頃より、このノンフローの感情はなるべく避けることも、フローに入りやすくなるコツです。

なぜならノンフローな感情は、「とらわれ」の原因そのものなのですから。

心の「とらわれ」から直ぐ抜け出すためには、心のキャパシティを広げる必要があります。

そのための一番の方法が、考え方を変えることです。

人は概して、与えられることに喜びを見出し、与えることに損なイメージを持っています。

しかし、人は与えることでもフローになることができます。

特に感謝の言葉をもらったりして、努力が報われたような気持ちになった人は、沢山いるはずです。

最近では、感謝の言葉すらも発する人が少なくなっているのですが...。

言葉に出さないまでも、笑顔をみたりするだけでも、心が和んだりします。

自らの行動やエネルギーを人に与えて、人の元気になる様をみて、かえって自分自身も心が元気になった人は、沢山いると思います。

正誤思考や損得勘定で物事を判断しようとして、知らずの内に心のキャパシティを小さくして、自分自身が「とらわれ」易くなってしまい、パフォーマンスを下げる結果となることだけは、避けたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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